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日本・アジア・世界 未来へのかすかな見通し

2008/03/08 22:43

 


親日派・・・の必要

 私が日本に対して言いたいのは、ここしばらく、軽挙妄動を絶対につつしむべしということだ。日本はまだ動ける状態には達していない。まずアメリカにしばられて半身不随である。次にソ連に狙われている。ソ連の直接の敵はアメリカであるが、もし日本をアメリカの支配から切りはなすことができれば、ソ連にとってこれほどありがたいことはない。
 第三は中共である。この新興帝国は勃興期ナショナリズムの活力の頂点に立っているように見える。ネールの指摘したとおり、ナショナリズムは自己解放と国内改革に一応成功すると、膨張主義に転化するおそれがある。国民をナショナリズムで鼓舞扇動しすぎると、膨張主義の猛火は指導者の手に負えない規模と方向にもえひろがる。中共はアメリカを紙の虎と呼び、ソ連を修正主義と呼ぶ。これはナショナリズムの牙と爪である。アジア唯一の工業国日本を「勢力圏」に入れることができたら、これに増す成功はなかろう・・・

進歩的文化人の加害妄想

 「一億総懺悔」という標語を案出した政治家が誰であったか思い出せないが、彼が戦争中には「一億総蹶起」を高唱した政治家と同一系統の人物であったことだけはまちがいない。「世界各国に対して謝罪使を送れ」という痴呆論も同じころに出ている。「特に中国に対して」という一派は今なお余勢をふるっているようである・・・

「百年戦争」は終わった

 犯罪と呼ぶならば、すべての戦争はことごとく犯罪的である。「満洲事変」や「日支事変」だけが犯罪的なのではない。アレクサンダーの戦争もジンギスカンの戦争もナポレオンの戦争も、犯罪の点では数倍も大規模であった。「太平洋戦争」における戦争犯罪者としては、トルーマンもアイゼンハワーもチャーチルもマッカーサースターリン蒋介石も、東京裁判の被告たちとなんら異るところはない・・・

「雄藩」と脱藩者

 ナショナリズムには牙がある。牙も爪もない「新ナショナリズム」などと言うクラゲのお化けみたいなものは、どこの水産試験場でもつくり出せない。現に中共ナショナリズムは原爆という恐るべき牙をはやした。これがナショナリズムの成長形態だ。ナショナリズムには新も旧もない。
 産業的、貿易的、道路的、税金的復興だけが日本の復興ではない。首相をトランジスタ・ラジオのセールスマンと呼ばれ、しかもその首相がこわれたラジオみたいに沈黙していたというような現状にはがまんできない。国民精神の柱をうち立て、魂の旗をひるがえすべき時が来ている。
 ただし、日本のナショナリズムの復興を考える場合、自らはやす牙と爪のことを考えなければならぬ。マッカーサー元帥給与の「平和憲法」なるものが、日本弱化政策の遺物にすぎないことを見抜けず、自国の軍隊を「自衛隊」という名で日蔭者あつかいにし、原子力潜水艦や核兵器におじけをふるう「国民」には、ナショナリズムを語る資格はない。ナショナリズムを口にする以上は、いずれは原子爆弾の牙をはやすことも今から覚悟しておかねばならぬ・・・

戦争という愚行

 戦争とは何か? 一言でいえば愚行である。人類が原始生活から脱出して、「文明」という名の一つの「階級」にたどりついて以来七千年間、全地球の表面で絶えずくりかえしてきた愚行である。「文明」には平和はなかった。不断の戦争のくりかえしが「文明」であった。都市国家と都市文明の発生以来の戦争を研究して、戦争九五%に対して平和の期間は五%もなかったと論証した学者もいる・・・

息子たちの世代

 私は日本の息子たちに期待している。息子たちは決してグレン隊とフーテン族ばかりではない。ふやけても崩れてもいない。
 最近、私は若い二人の評論家の文章を読んで、新鮮な衝撃をうけた。
 一つは西尾幹二氏『私の「戦後」観』(『自由』二月号)、一つは江藤淳氏『日本文学と「私」』(『新潮』三月号)である。
 ・・・

「国のための文学」

 江藤淳氏の論文はアメリカの話から始まっているが、氏の若い眼光は私の知らなかった「アメリカ社会と政治の問題点」の所在を見抜き、それを明治精神史の問題に発展させる。柳田泉氏の明治文学観を紹介して、
「これは要するに、明治の作家は『国のために』書いたということになり、その『国』とは、この場合、『東洋と西洋の文化を調和』して新文明を創り出そうという『理想』に生きていた国であったということである。明治の日本人は、この使命感とこの理想によって決定されるある共通の感情に生きていた」・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十九章 日本・アジア・世界 未来へのかすかな見通し

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

ISBN:9784931391925
ISBN:9784860620523(普及版)

カテゴリ: 政治も    フォルダ: 指定なし

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ナショナリズムには牙がある ネールの警告

2008/03/08 15:49

 


「安全な思想家たち」

 はじめ、私は終わりの一章を諸家の反論に対する反論にあてようと予定していた。だが、それはやめる。反論の数は多く、その切抜きも集まっているが、集めているうちに、私はそれに答える興味と義務感を失ってしまった。どれも似たような反論である。アカハタ屋日本代理店の店員諸君の反論は聞きあきた公式論であり、その他の諸氏はたいてい大学教授または助教授の肩書をお持ちだが、全く教授らしからぬお脳の弱さ・・・・・を露呈しているばかりで、よくもこれで大学教授になれたものだとあきれかえった・・・

占領の尻っぽ

 占領下に民主主義などというものが存在しなかったことの手近な一例をあげよう。
 奥野健男氏が『昭和戦争文学全集』第十巻の解説で、阿川弘之氏の作品について書いた文章がある。
「阿川氏の作品には学徒兵として戦った作者の戦死した友人たちへの無限の感慨がこめられている。しかし、このような抑制されたさりげない表現で描かれた小説は、敗戦直後のどぎついまでの問題意識と、これでもかこれでもかと泥絵具を重ねるような強烈な表現の小説のみがもてはやされた時代には、もの足りぬものとして忘れさられていった」
 これは普通の作品評であり、文学史的考察だが、私を驚かせたのはそれにつづく一節であった。
「また昭和二十五年頃までは日本兵の勇敢さを、少しでも描いた文章はGHQによって検閲された。戦争を書くならば主人公は戦争反抗者、戦争批判者に、あるいは徹底的な被害者、犠牲者として描く。特攻隊員は犬死にしたバカ者であり、街のぐれん隊と同じであるとさえ見なされていた。そういう中で、戦争を信じ、日本の勝利を願い、死んでいった学徒兵の純粋さ美しさを内側から描くことは至難であった。たとえ全体としては戦争否定、戦争批判の志によってつくられていても、戦争を肯定した人物の心情を救い出すことは極めて困難であった。ぼくは当時の戦争小説を読み、戦争中ぼくたちのまわりにみちみちていた、愛国者、軍国主義者、、戦争を信じてはげんでいた人々がほとんど登場せず、当時お目にかかったこともない戦争批判者、傍観者だけが登場するのに奇異の感を抱いた。ぼくは当時の戦争文学に対して不満と不審を抱かざるを得なかった」・・・

ナショナリズム議論はまだ早すぎる

 学者と編集者たちが、「新ナショナリズム」についてさわいでいる。すこし早すぎる、と私は思う。A・A諸国と中南米ではナショナリズムの猛火がもえあがっている。日本にもそれに似た動きがいくらかあるように見えるが、すこしちがう。
 国民と民族の血管の中から燃えあがり、これを動かし、熱狂させ、革命と戦争のための死におもむかせるナショナリズムは今日の日本には実在していない。昔のある時期には実在したが、今は鎮火し、鎮静している。・・・

「日本文化フォーラム」グループの思想

 もう一つ見落とせないのは「日本文化フォーラム」のナショナリズム観である。左側から「ライシャワー・ライン」などと攻撃されているが、そんな政治的中傷は問題ではない。優秀な学者論客を集めて、このグループの発言は常に新鮮だ。例えば福田恆存氏などは、はっきり「反共親米派」を自称して『日本共産党礼讃』という戲文を書く大胆な逆説的正論家だが、その福田氏に平林たい子、林健太郎氏などの同人を加えて、雑誌『自由』最近号で座談会を行っているが、ここではナショナリズムの代わりに「ナショナル・インタレスト」(国家的利益)という言葉が用いられている。佐藤首相も施政演説で同じ言葉を使ったし、原産地はアメリカあたりかもしれぬが、賢明な用語法または表現転換だ、と私は思った・・・

ナショナリズムには新も旧もない

 もちろん、政治家や指導者は、ナショナリズムの牙をかくそうとする。「正義」「人道」「文明」「民主主義」「解放」「共産主義」などの美辞が、この牙かくしに常用されてきた。
 日本人は昔から「王道政治」という麗句を使いたがった。必ずしも儒教の影響だけではない。大川周明はプラトンの「国家論」の中に王道主義を発見し、これと儒学と仏教を総合してその「昭和維新論」と「アジア解放戦争理論」を構成した。だが、現実の政治と戦争の中には王道はない。政治は常に覇道であり、戦争においても覇道の実践者が覇者となり勝利者となる。大東亜戦争における日本のイデオロギーの破綻と崩壊は、その最近の実例であった・・・

ネールのナショナリズム論 ─ ナショナリズムの牙はぬけない

 飯塚氏はこれは軍国主義日本のけがの功名みたいなものであり、日本は結果においてアジア諸民族の鉄鎖を断つという歴史的な役割を果たしたことになったが、「だからと言ってこちらから恩を着せることのできる筋合いのものではない」と、どこまでも日本をアジアに対する一方的加害者あつかいにしているが、歴史はもっとすなおにながめるがよい。インドのネール首相が独立後来日して、心から感謝の意を表したいと言った相手は大川周明氏と黒龍会の(頭山満翁はすでに死去していたので)葛生能久氏であった。アジアの解放において日本人の果たした重要な役割とアジア人の心情を知らぬ者は、どうやら飯塚教授の方らしい・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十八章 ナショナリズムには牙がある ネールの警告

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

ISBN:9784931391925
ISBN:9784860620523(普及版)

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大東亜戦争開戦 破れて悔いなき戦争

2008/03/08 08:24

 


十二月八日の感動

「聴き行くうちにおのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡がくもって来た。私はそのままでいた。奉読が終わると、みな目がさめたようにして急に歩きはじめた。私も緊張して控室にもどり、もとの椅子に坐して、ゆっくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかえした。頭の中が透きとおるような気がした・・・・・・・・・・・・・・・・
 世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。
 この刻々の時間こそ、後の世から見れば歴史の急曲線を描いている時間だなと思った。……またアナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行ってみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、すこし息をはづませたアナウンサーの声によって響きわたると、思わずなみ居る人達から拍手が起る。私は不覚にも落涙した」
「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい日に遭えるとは思わなかった。この数カ月と言わず、この一、二年と言わず、我らの頭上に暗雲のごとくおおいかぶさっていた重苦しい憂鬱は、十二月八日の大詔渙発とともに雲散霧消した」・・・

パール博士の「日本無罪論」

 大東亜戦史については改めて語るまでもない。それは見事な敗戦であった。後世の史家は日本軍の勇戦と敢闘と壊滅を二十世紀の英雄譚として書きのこすであろう。しかし、世界戦史にも前例がないと言われている「緒戦の大戦果」はわずか一年以内に逆転され、その後三年間に百五十万の戦死者、爆撃による三十五万の銃後国民の犠牲者、全滅した連合艦隊、撃沈された商船二千隻、五十兆の戦費、焦土と化した都市(そのうち二つは原子爆弾の実験に供せられた)と完全栄養失調の国民を残して、昭和二十年八月十五日、日本は降伏した。
 その後、占領の七年間がつづき、その間に「東京裁判」なるものが行われた・・・

東京オリンピックの旗

 たしかに日本は四つの島の中におしもどされた。形は明治維新前そのままである。だが、いかなる力も歴史そのものをおしもどすことはできない。太平洋をとりまく島々と国々の姿は先に述べたとおり百年前とは全くちがっている・・・

アメリカは罠をかけた

 日米開戦に至る経過─日本の国内情勢と開戦までの外交史は『太平洋戦争への道』第七卷にくわしく描かれている。
 開戦前(昭和十四年)に成立した米内内閣の首相米内海軍大将は、強硬な欧州戦争不介入論者であり、日独伊三国同盟にも反対し、特に対米不戦の方針を堅持しようと努めた。
 米内首相は閣議において、海将の資格で「対米英海戦には勝てる見込みはありません。大体日本海軍は、米・英を向こうにまわして戦争するようには建造されておりません」と断言した。
 宮中筋と財界は米内の方針を支持し、天皇もこれを喜ばれて、「近来歴代内閣の総理が拝謁する場合には不機嫌なことが多かったけれども、最近、米内総理が拝謁したときは非常な御機嫌で、総理も珍しいことだと不思議がっておった」と『原田日記』に記されている・・・

真珠湾のオトリ

 アメリカ政府はあの手この手で時間をかせぎながら戦争体制をととのえ、ほぼその準備がととのったと見た時、石油の禁輸を実行した。
 このことについて、島田元海軍大臣は東京裁判の被告席で次のようにのべている。「海軍の手持ち石油量は二カ年分で、それ以上の入手の見込みは断たれてしまった。このままの状態で推移せんか、石油補給力の漸減のため、日本海軍はたとえ政府の要請を受けるとも、海戦を賭することは不可能におちいることは明らかである」
 アメリカ政府はそのことをよく知っていた。石油の禁輸と同時に日本は追いつめられ、坐して死を待つかわりに蘭印に武力進出すること、ルーズベルト大統領の言葉によれば、「南太平洋水域における戦争の勃発」が必至であることを見抜いていた。しかも敢えて禁輸を実行したのは、開戦の準備がすでにととのったことを確信したからであった・・・

誤訳された暗号電報

 日米会議の進行中に、日本の野村大使に対する暗号電報がアメリカ諜報部によって解読され、しかも重大な部分が誤訳されて首脳部に報告されたという事件があった・・・

ハル・ノート

 アメリカ側の「最後の通牒」は昭和十六年十一月二十六日の「ハル・ノート」であった。
 この十箇条よりなる覚え書きの全文は、すでに多くの「太平洋戦史」の中に引用されているが、その中の重要な二項目は、「三、日本ハ中国及ビ仏印ヨリ、全陸海空軍及ビ警察力ヲ撤退ス。四、両国政府ハ、重慶政府以外ノ中国ニオケル如何ナル政府モシクハ政権ヲモ支持セズ」である。
 アメリカ国務省に呼びつけられて、ハル長官からこのノートを手交された野村大使らは「ただ呆然たるばかり、悲痛の面持ちで引きさがった」とチャーチルはその回想録の中に書いている・・・

詩人の心情

 高村光太郎氏は、
 『必死にあり、
  その時人きよくして、つよく、
  その時こころ洋々としてゆたかなのは
  われら民族のならいである。
  人は死をいそがねど
  死は前方より迫る。
  死を滅すの道はただ必死あるのみ。』
と歌い、「沈思せよ蒋先生」と言い、
 『わが日本は先生の国を滅すにあらず、
  ただ抗日の思想を滅すのみだ。
  抗日に執すれば先生も亦滅ぶ。
  わが日本はいま英米を撃つ。
  英米は東亜の天地に否定された。
  彼らの爪牙は破摧される。』
と歌った。
室生犀星氏は「マニラ陥落」を喜び、
 『思うても見よ
  我々の祖母が秋の夜の賃取仕事に
  ほそい悲しいマニラ麻の緒をつなぎ
  それら凡てを搾取したあのマニラ、
  死んだ多くの祖母よ、母だちよ
  あなた方を賃仕事でくるしめた
  マニラに日本の旗が翻った
  祖母よ母よ姉よ……
  あなた方の孫達が戦ったのだ』
と感慨している。
三好達治氏は真珠湾奇襲の成功を祝し、
 『ああその恫喝、ああその示威
  ああその経済封鎖
  ああその ABCD線
  笑うべし 脂肪過多デモクラシー大統領が
  飴よりもなお甘かりけん 昨夜の魂胆のことごとくは
  アメリカ太平洋艦隊は全滅せり!』
と歌っている。
伊藤静雄は、開戦一周年に、
 『千早振神代にぞきく
  かの天の岩戸びらきを
  さながらに 大詔すがしさに得堪えで泣きて
  いただきしあしたをいかで 忘れ得む』
と述懐している。
大木惇夫氏は、ジャワの戦線に立って、
 『アジアの民よ今ぞ起て、
  起ちて、日の、曙の子とよみがえれ、
  爾らのアンコルワット
  爾らのボルブドール
  爾らの聖なる典
  爾らのものを爾らに返らしめよ、
  ……アシヤ・ラヤ、アシヤ・ラヤ
  アジヤのアジヤのためにこそ
  アジヤの民よ、挙りて起て。
  われは日なり、夜を明かしむる炬火なり
  曙なり』
とインドネシヤとアジヤの民を鼓舞している・・・

「時しもあれ大みことのりは降りたり肉むらゆらぎ命の激つ」吉植庄亮
「何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてしやまん」斎藤茂吉
「ますらをやひとたびたてばイギリスのしこのくろふねみづきはてつも」会津八一
「ボルネオに迫ると聞けば心をどる白人よこしまにここを占めにき」土屋文明
「こころざし伴の隼雄におとらめやきびしく生きむ年の来向う」折口信夫

 たしかに戦争には敗れたが、百年の運命に堪え、歴史の使命を果たした日本国民に何の恥があろうか!


「大東亜戦争肯定論」

第十七章 大東亜戦争開戦 破れて悔いなき戦争

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

ISBN:9784931391925
ISBN:9784860620523(普及版)

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昭和維新 間にあわなかった「敵前作業」

2008/03/07 22:34

 


磯部中尉の獄中遺書

 「明治維新」は成功したが、「昭和維新」は失敗した。なぜであろうか。─この問いに答えるために「二・二六事件」の考察から始めよう。
 この事件の指導者の一人、磯部浅一中尉の獄中遺書『行動記』に次のような一節がある。
 「蹶起の目的は─重臣・元老、特にロンドン条約以来の統帥権干犯の賊を斬り、軍部を被帽して維新の第一段階に進むことであって、決して五・一五でも、血盟団でもなく、生野(文久三年、平野国臣等の一挙)でも、十津川(同年、天誅組の一挙)でもない。鳥羽・伏見(慶応四年、薩長連合軍による倒幕戦争開始)の覚悟である。ところが、表面あくまで軍部を被帽して進むのであるが、軍部が弾圧態度を示した場合には自爆して、被帽軍部と共に炸裂せねばならぬ。すこぶる微妙な鳥羽・伏見である・・・

林少尉の遺書

 林八郎少尉(二十三歳)の遺書は『一挙の失敗並に成功の真因』と題せられている。
「一挙の成敗是非の、跡をきわめ意義を尋ぬるはいやしくも天下を憂うる士の一大責任なるべし。その成とは何ぞや。
 一挙発起し得たることなり。少くとも重臣ブロックに一大痛撃を与え得たることなり。その結果は、
一、陸軍首脳部の無智、無能、無節操、中央部の幕僚中心権力至上主義、現状維持方向を暴露し、以て紛々錯雑せる流派を、維新、否維新の二大陣営に分ち、遂に維新に統一さるべき段階を進めたり。
一、純真熱血の青年に自覚と鼓舞を与えたるを信ず。
一、一般国民に非常時の真底を自覚せしめたるを信ず。
 失敗とは何ぞや・・・

軍部ファッシズムという嘘

 村中孝次大尉の遺書の中には次のような一節がある。
「第一、今回の決行目的はクーデターを敢行し、戒厳令を宣布し軍政樹立し昭和維新を断行し、以て北一輝著『日本改造法案大綱』を実現するに在りとなすは是れことごとく誤れり。群盲象を評するに非ざれば、自家の曲がれる尺度を以て他を忖度量定するの類なり。
 一、吾人はクーデターを企図するものに非ず、武力を持って政権を奪取せんとする野心私慾に基づいてこの挙を為せるものに非ず、吾人の念頭するところは一に昭和維新招来のために大義を宣明するにあり。昭和維新の端緒を開かんとせしにあり」・・・

竹山道雄氏の正論

 明治維新は成功したが、「昭和維新」は失敗した。三月事件、十月事件、血盟団事件、神兵隊事件、五・一五事件から、二・二六の反乱と石原莞爾の「東亜連盟と昭和維新」をもふくめて、すべて挫折して、所期の目的を達することなく終わった。
 その原因を軍部の暗闘、政治家の無能、右翼の暴走のみの中に求めることはできない。私はその真因を前回に引用した石原莞爾の「その建設工作は敵前作業の性質をおびている」という一句の中に発見する・・・

二・二六事件が私に与えた衝撃

 私は二・二六事件の四日間も、その後もずっと鎌倉に孤立していて、事件についてはラジオと新聞による以外に何も知らなかったのであるが、同年七月、「反乱軍」の処刑とその判決理由書が発表され、「事件の真相」らしいものにふれたとき、私をとらえたものは異様な興奮であった。
 判決発表と同時に、雑誌『改造』がいち早く特集した「二・二六事件」別冊付録に、私は次のような『感想一つ』という小文を書いている。
「この事件は、当今の陰欝な時勢の曇天を裂く霹靂であったと思う。
 この事件によって、時勢が一層陰欝になったと感じる人も少なくないらしいが、僕は全くその逆の感じを受け取っている。理窟から来たのではない。おそらく、僕の中に眠っている『青年将校的』なるものが、この事件によって目覚まされたのであろうか?・・・

児玉誉士夫の自伝

 現在、「右翼の巨頭」の第一人者と目されている児玉誉士夫の自伝『悪政・銃声・乱世─風雲四十年の記録』(弘文堂)はただ読み物として読んでもおもしろい本だが、大正、昭和期の右翼の発生と成長を解明する文献としてたいへん貴重である。
 大正十五年─この年は私は左翼大学生の一人として京都未決監にいたが、児玉氏は十五歳の少年で、朝鮮京城の姉の家をとび出し、神戸の次兄のもとに行き、十円の旅費をもらって、さらに東京の長兄を訪ねて、向島のある鉄工場で日給一円二十銭の見習工として働いていた・・・

児玉氏と「東亜連盟」

 笠木氏が児玉青年に対して最初に発したのは、「満洲を日本が侵略するようなやり方は、自分はぜったい賛成できぬ。むしろ、日本は同じアジア民族としての観点から、この地に五族協和を目標に、いわゆる王道楽土を築きあげる考えでいなければだめである」という言葉であった。児玉青年は「勝ちいくさに乗じて、疾風のごとく満洲の曠野に猛進撃をつづけつつある得意の軍部を前にして、「満洲をうばう勿れ!」と苦言する先生の人がらと、その確固たる信念にこころを惹かれずにはおれなかった」
 児玉青年は「東亜連盟」の思想とその系統の「昭和維新論」にはじめて接したのである。児玉青年は笠木にみちびかれて、「協和会」と「東亜連盟」のために働くことになった。だが、東亜連盟論者の努力にもかかわらず、戦火は長城を越えて拡大し、上海事件が起った・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十六章 昭和維新 間にあわなかった「敵前作業」

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

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日支事変への発展 「東亜連盟」の理想と現実

2008/03/07 06:03

 


関東軍の「独走」

 柳条溝爆破事件につづく関東軍の「独走」に対する日本政府の方針は、どこまでも「不拡大方針」であった・・・

「独走」の原因と条件

 関東軍が「独走」したことは事実である。だが、何が彼らを「独走」させたのか。
 それが日本国内の「昭和維新」運動と相呼応したものであったことはすでに述べた。だが、関東軍はどこまでも満洲現地の駐屯軍である。現地軍を「独走」させた、より・・直接的な原因は満洲の情勢の中にあったはずだ・・・

「満洲青年連盟」の発生と活動

 これらの情勢の中で、関東軍の「独走」は行われたのであるが、しかし、ここで見おとすことのできないのは、在満日本人二十万の動向である。河本大佐の張作霖爆殺が結果において不発同様に消えてしまったのは、それが内地の日本人にはもちろん、在満同胞にとっても寝耳に水の事件であり、言いかえれば、国民的世論の支持がなかったからだとも言える。
 その後三年間の拡大する反日抗日事件の続発は旅順、大連にも、奉天、長春にも、満鉄社員の内部にも、その沿線付属地の住民にも、はげしいナショナリズムをよび起し、張学良と蒋介石への怒りを結晶させた・・・

「王道政治」という夢

 満洲建国においても、「独立」と「五族協和」を本心から理想した多くの日本人がいた。「青年連盟員」だけにかぎらない。笠木良明系の青年参事官たち、「東亜連盟」を信じた人々も、その中に数えなければならない・・・

笠木良明と『雄峰会』

 「青年連盟」を語って、「雄峰会」を書きおとすことはできない。この団体は満洲事変前に満鉄社員の中に発生し、事変後は「青年連盟」と協力合作して満洲建国に挺身し、自治指導部、県参事官運動という特殊な仕事に献身したが、その激しすぎる、純粋すぎる理想主義の故に、関東軍及び現地官僚と衝突し、多くの青年参事官たちを奧地に死なせながら、解散を命じられ、追放された大アジア主義の団体である。その指導者は笠木良明であった・・・

石原莞爾もまた夢を見た

 石原莞爾の対満蒙政策は対米持久戦争を覚悟した上の軍事的完全占領案であったが、やがて石原は軍事占領案を捨て、「東亜連盟」の夢を信じはじめた。彼はまず「世界最終戦論」を自ら編み出してこれを信じ、「東亜連盟」を信じ、日蓮の予言と法華経を信じ、この狂信に近い信念によって、関東軍及び日本軍部「独走」の機関車となった。
 今にしてふりかえればすべて夢である・・・

異端邪説としての「東亜連盟論」

 東亜連盟の理想がなぜ異端邪説視されるようになり、石原莞爾、東条英機両将軍の正面衝突となり、前者の敗退となって終わったか。勝った東条が特別な悪党で、負けた石原が超俗的な善人であったとも言えない。私はこれを理想と現実との相剋と見る。東亜連盟は理想であり、戦争は現実である。理想はしばしば現実によって押しつぶされる。または有害無益な空想として棚上げされてしまう。東亜連盟協会編『昭和維新論』は石原の「理想」を次のように要約している・・・

石原はファッシストではない

 満州国だけではない。最近発表された汪兆銘の遺書を見ると、南京政府もまた日本に抵抗していた。平時でも異民族の協和は至難の業だ。まして戦争をしながら、民族の協和を説いても、戦争を仕かけられ、武力によって征服されている民族の耳には鬼の念仏としか聞こえまい。
 私は東亜連盟の理想を嘲笑するために、この章を書いているのではない。私自身は戦争中も現在も「東亜連盟論」の基本原則には賛成である。理想は死滅するものではない。時勢が移れば、雨を得た不死の蘚苔類のように再び芽を吹き生命を取りかえす・・・

東亜連盟論は生きている

 あとに残るものは交戦国の実力、その戦力の問題だけである。
 この見地から見れば、大東亜戦争における緒戦の戦果はほとんど奇蹟的と言える。政府にとっても、海陸軍首脳部にとっても、できれば避けたかった戦争であり、言わば追いこまれ、誘いこまれた戦争であった。山本五十六元帥の言葉を借りるまでもなく「終局の勝利がもし日本側にあるとすれば、それは天佑神助によるほかはない、言いかえれば、最初から勝ち目のない戦争」であった。これを知りつつ全世界の五分の四を敵として敢えて立上がらなければならなかったところに「東亜百年戦争」の帰結があり、日本の宿命があった・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十五章 日中戦争への発展 「東亜連盟」の理想と現実

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

ISBN:9784931391925
ISBN:9784860620523(普及版)

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内政派と外政派 外政派の爆発としての柳条溝謀略

2008/03/06 21:03

 


柳条溝の爆発

 満洲事変の口火となった柳条溝事件もまた、関東軍の謀略であった。その直接の立案者、首謀者は石原莞爾、板垣征四郎の両参謀ということになっている。
 昭和六年の秋九月十八日の午後十時過ぎ、関東軍柳条溝分遣隊の河本中尉は板垣参謀の秘密命令をうけ、七、八名の部下をひきいて、張学良軍の本拠北大営に近い柳条溝の線路に黄色方形爆薬を装置し、十時四十分奉天着の急行列車通過の直前に爆破した。だが、爆破不完全で線路の一本だけが一メートル五十センチほど吹っ飛んだだけであったので、急行列車は転覆せず、無事に通過してしまった・・・

再び政府の知らぬ謀略

 完全な謀略であり、その直接責任は石原・板垣両参謀の上にしぼられる。大東亜戦争の開始をこの時点に求める進歩派の歴史家たちは、「柳条溝の卑劣な謀略によって始められた日本の侵略戦争は日支事変と太平洋戦争をふくむ十五年戦争に発展し、日本はその当然の刑罰として大敗戦と大破滅に追いこまれた」と結論する。
 だが、私は「十五年戦争説」をとらない。どこまでも「東亜百年戦争」の立場に立って、満洲事変をも解釈する・・・

幣原外交の本質

 もし幣原路線をまっすぐにつらぬき通すことができていたら、日本はあの「破滅的な戦争」を避けて通ることができたであろうという考え方は現在でもまだ残っている。この考え方の裏側には感傷的な平和主義と同時に、日本は世界の「列強」の一つとして、英・米・仏・ソ連と協力し、平和に・・・、シナと東洋諸国を支配し搾取して、繁栄を楽しむことができたであろうという狡猾な意図もかくされている・・・

アメリカの挑戦─「白い太平洋」の夢

 佐々木大佐が広東で見物させられた排日演劇は、大正四年に日本が北京の袁世凱政府に強制して調印させた、「対支二十一ヵ条」の所産であった。当時の大隈内閣は、欧州大戦による欧米勢力の東洋からの一時退潮を「千載一遇の好機」と見て、「東洋における日本の利権を確立するために、日英同盟の義務に従う」というただそれだけの理由によって参戦し、青島を攻略し山東省からドイツの勢力を一掃した後に、「満蒙における特殊利益の強化、山東省におけるドイツ利権の継承、そのほかシナ本土における優越権の樹立」を二十一ヵ条にまとめ、武力発動で威嚇して北京政府に強制した・・・

幣原外交の本質

 さて、再び幣原外交と満洲事変の問題にかえろう。
 幣原外交とは、一言で言えば、ワシントン体制への適応であり、アメリカの対アジア政策への屈服であった。これは幣原個人への攻撃や非難をふくまない。幣原は当時日本のおかれた苦境を打開するために、日本の支配層が最も「理性的」で「現実的」だと考えた路線を固守し実行した一個の硬骨な外交官であった。しばしば軍部と衝突し、反対政党、少壮軍人、右翼学者の攻撃を受けたが、幣原自身は動じなかった・・・

参謀本部の中の「秘密参謀本部」

 板垣征四郎大佐は陸軍大臣の制止に対して、
 「いたずらに消極的宣伝戦に没頭することなく、千載一遇の好機に乗じ、敢然として満蒙問題の解決に邁進するを要す……区々たる悪宣伝のごとき毫末も恐るるにたらず」
 という反抗的電報を打ちかえし、ついには「軍は一定の任務に基づき行動せるものなり、一々参謀本部の指令を受くるに及ばず」という反乱に等しい電報まで打ってきた・・・

「錦旗革命」と橋本欣五郎

 彼ら軍人たちはこの一挙を自ら「錦旗革命」と称し、「昭和維新」と呼んだ。その昔の明治維新は、武士階級と浪士と国学者たちによって行われた。徳川封建制度はすでに老朽し、農民は特に困窮していたが、自ら立って封建制度を倒す第三階級は成長していなかった。勤王志士とよばれる武士団が立上がって、幕府とそのものを廃止し、統一国家をつくったのが明治維新であった。武士団を蹶起させたのは、国内事情よりも国際事情、黒船の来航と「西力の東漸」であり、その標語は「尊皇攘夷」である・・・

徳川義親氏のこと

 これらの軍人たちに思想的背景を与えた民間学者として北一輝、大川周明のことはすでに述べた。この他の「桜会」に協力し後援した軍人以外の人物を調べてみよう。
 橋本手記の中には、「盟友」の民間人として、大川周明、岩田愛之助、松尾忠二郎、万俵喜蔵、高橋利雄の名があげられている。
 中野雅夫の解説によれば、岩田愛之助は愛国社の頭領、松尾忠二郎は神戸製鋼・北九州鉄道の取締役、播磨造船の社長であり、万俵喜蔵は貿易商・関西物産取締役で、共に満洲事変ののちに橋本に資金を提供した。高橋利雄はロシア通信社長で、ソ連情報提供のために参謀本部に出入りしていた・・・

内政派と外政派

 昭和の革新軍人の中には、内政派と外政派があった。内政派とは国内改造を先にせよというものであり、外政派とはまず満蒙問題を解決して、国内改造をその後に実行しようと主張する者である。橋本中佐は内政派を代表していた・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十四章 内政派と外政派 外政派の爆発としての柳条溝謀略

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

ISBN:9784931391925
ISBN:9784860620523(普及版)

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満州事変の序曲 張作霖爆殺事件

2008/03/06 08:29

 


不思議な軍事謀略

 昭和三年六月四日、満洲奉天の近くで不思議な・・・・爆殺事件がおこった。殺されたのは満洲の主権者張作霖元帥であり、列車を爆破した首謀者は関東軍参謀河本大作大佐であったが、それを不思議というのは、田中義一首相をいただく日本政府も参謀本部の首脳部もこの爆破計画を知らなかったという点である。もちろん新聞記者も知らず、私たち国民も知らなかった。
 東京朝日新聞奉天特派員は、『張作霖列車中に遭難─南軍便衣隊の計画か』という見出しのついた次のような記事を打電した。
 「四日午前五時半頃、張作霖氏の乗った特別列車が満鉄奉天駅をる一キロの満鉄線の陸橋下の亰奉線を驀進中、突然、轟然と爆弾が破裂し、満鉄の陸橋は爆破され、進行中の張氏の特別列車の貴賓車及び客車三台は破壊され、一台は火災を起して焼滅し、陸橋も燃えつつあり、我が守備軍及び警官出張中である」・・・

田中首相の苦境

 田中義一は首相と外務大臣を兼ねていた。当時、張作霖は北京に進出し、国民党の北伐軍と対立していた。田中内閣は満洲の権益を守るために張作霖を側面的に・・・・利用する政策をとっていたのであるが、済南事件によって蒋介石の国民軍を正面の敵にまわすことになってしまった。すでに燃えあがっていた排日運動の火はますます激しさを増し、満洲にまで波及してきたので、田中義一は張作霖を満洲に引き揚げさせ、その代わりに、蒋介石には絶対に満洲に入ることを禁じようと考え、その旨を両者に通告した。これは明らかな内政干渉だから、張も蒋も承知しない。だが、北伐軍の士気は盛んで、張作霖軍の敗色は明らかになったので、張作霖は田中の要求に従わざるを得なくなった。田中としては、張作霖を殺そうなどとは考えていなかった。どこまでも彼を利用して満洲の権益・・・・・を守るつもりであったのだが、河本大作をはじめとする関東軍の急進派と政友会の強硬派は、田中の政治・・を踏み越えてしまった・・・

すこし先まわりの回想

 さて、張作霖の爆殺は、日本にはねかえって、田中首相の「急死」を生み、満洲においては張学良の易幟(国民党入党)と抗日運動の公然化と熾烈化を生んだだけの「完全な失敗」のように見えたが、歴史の流は決してそこでとどまらなかった。佐々木到一大佐の言う「実物教育のおかげで、目をさますものはさまし」これも政府と国民の知らぬ舞台裏で、次の「満洲事変」をひそかに著々と準備していた。
 この準備と再爆発を理解するためには、すこし先まわりして、当時から現在に至る世界とアジアの情勢を今一度ふりかえっておく必要がある・・・

新中共帝国の使命

 しかし、「日本復興」を安心して語るのは早すぎる。私が語りたかったのは中華人民共和国という新帝国の運命である。日本による「東亜百年戦争」は終わったが、まだ東亜問題は残っている。そのほかに、さらにアフリカと東南亜諸国と中南米諸国の問題があり、アメリカそのものの中にも黒人問題が燃え上がっている。国連加盟の新興諸国の大部分は日本の敗戦後に独立した国々である。これらの国々の独立を日本の健闘と玉砕の結果だとは言わないことにしよう。ただ、それが日本の抵抗─これを侵略と呼ぶことは左翼学者諸氏の御自由だが─その日本の抵抗がマイナスよりもプラスに作用した結果としての独立であることだけはまちがいない。ただし、独立はただちに解放と繁栄を意味しない。新興独立国の多くはいわゆる「低 開発国」であり、「近代化以前の国」であり、それ自身の中に多くの難問題をふくんでいて、地球上の全人類と民族の平等と共通の繁栄の日はまだまだ遠い・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十三章 満州事変の序曲 張作霖爆殺事件

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

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昭和動乱の思想的背景 大川周明と北一輝

2008/03/05 22:08

 


玄洋社・黒竜会とシナ革命家団

 日本のナショナリズムの膨張政策は、そのはじめから朝鮮半島と鴨緑江の線にとどまり得るものではなかった。
 「日露戦争の結果、わが国は韓国における優越権と、満洲におけるロシアの敷設せる南満鉄道、ならびに大連、旅順の租借権、および樺太半島半部を割譲せしめたるのみにして、満洲の領土は清朝に引き渡してやった。当時、もし露・清間に攻守同盟の密約が存在していたことを知っていたならば、決して満洲を清朝に返すことはなかったのである」
 これは内田良平の『亜細亜の日本』の中の一節である・・・

満洲と日本の「変質」

 たしかに、満洲は清朝発祥の地であり故郷であったが、その実質は完全に変わって、漢民族の満洲になっていた。明治の中期までは、清朝の「封禁令」によって、満蒙族約三百万人、漢民族約二百万の土地にすぎなかったが、孫文などの革命運動の進行中に満洲は二千万または三千万と称せられる大量の山東移民の流入により、明白な漢民族の土地に変質してしまった・・・

日本は立ち止まれなかった

 葦津珍彦氏によれば、孫文はその『三民主義』の中で、「日本は馬関条約において朝鮮の独立を要求しておきながら、朝鮮を武力併合した。日本の信義はどこにあるのか」と非難した。ガンジーはその『インド自治論』の中で、「日本の空には英国旗がひるがえっている。あれは日本の旗ではない」と怒ったという。
 この非難と怒りは、シナ人としてインド人として、当然のものである。だが、これに無条件に同感する日本人は、日本の歴史と運命を忘れている。日本は西洋のアジア侵略への反撃としての「東亜百年戦争」を継続中であり、その途中において立ち止まることはできなかった。孫文もガンジーも、そこまでは日本の苦悩を認め得なかっただけだ・・・

愛国者の宿命

 「東亜百年戦争」は、その初期の幕末において、佐藤信淵より平田篤胤、藤田東湖、佐久間象山、吉田松陰に至る学者・思想家を生み、中期において西郷隆盛、福沢諭吉、板垣退助、中江兆民、樽井藤吉、大井憲太郎、頭山満、内田良平、宮崎滔天、徳富蘇峰、岡倉天心、陸羯南、高山樗牛、与謝野鉄幹、二葉亭四迷を生み、その末期において大川周明、北一輝、石原莞爾を生み出した・・・

「超国家主義」の誤解

 例えば「超国家主義」とは何か。これは東京裁判用語であり、Ultra-Nationalism の訳語である。"Ultra" はアメリカ発音ではアルトラだが、ドイツ語風にウルトラと言った方が日本人には耳なれている。レーニンの著書『ウルトラ左翼主義─共産主義の小児病』のウルトラである。「超」と訳さず、ただ「極端」と訳しておけば通じやすく、丸山真男氏流の無用な誤解と神秘的なこじつけ─「超国家主義者」をいわゆる「天皇制ファッシズム」に結びつけ、これをギャングや暴力団あつかいにする学問的暴行は生まれなかったはずだ・・・

佐藤信淵の思想と生涯

 同じことが幕末のナショナリストについても言える。
 例えば、平田篤胤の年長の門人佐藤信淵の思想と生涯は大川周明『日本精神研究』の中に要約解明されている。信淵は明和六年秋田の山村に生まれ、嘉永三年八十四歳の高齢で世を去ったが、江戸に家塾を開いて天下の政治を誹議する者として幕吏の追及をうけ、四十六歳の時、江戸払いとなり、さらに天保三年六十四歳の時、江戸十里四方追放を申しつけられ、山村に退去した。だが、たびたびひそかに江戸に潜入し、天保九年には同志渡辺崋山、高野長英とはかり幕府の「夷船打攘令」に反対する『夢の夢物語』を表し逮捕令をうけたが、門人塩谷宕陰の深夜の密報によって危うくのがれて、「蛮社の厄」の刑死をまぬかれた。しかも、その後、八十の高齢に至るまで筆を捨てず、著作は「天文、地理、農政、水利、軍学、火術」にまでわたり、硯儒塩谷宕陰をして「当世無類の学風にて御座候」と感嘆せしめた。遺著は三十六部二百十五巻に及んでいるという・・・

原典研究の必要

 内村鑑三は日清戦争中に、西洋人に読ませるため、英文で『代表的日本人』を書いた。これに選ばれた「日本人」は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人であった。
 大川周明の『日本精神史』には横井小楠、佐藤信淵、石田梅厳、平野国臣、宮本武蔵、織田信長、上杉鷹山、上杉謙信、源頼朝の九人が選ばれている。これは大正の末年から昭和の初年にかけて、「社会教育研究所」の青年学徒のために講義され、さらに多くの青年たちに読ませるべく出版されたものである。これより以前、またはほとんど同時期に、「復興アジアの諸問題」が拓殖大学において講義され、さらに、続編として「亜細亜建設者」が書かれ、イブン・サウド(アラビア建国者)、アトユルク・パシャ(トルコ)、レザー・パフラヴィ(ペルシャ)、ガンジー、ネール(インド)の五人の歩いた「荊棘の道」と、その「善戦健闘」を描いた。共に「全集」におさめられているが、『大川周明全集』全七巻は菊判約六千頁に及び、しかも一篇の瓦礫駄文をふくまず大正昭和の佐藤信淵ともいうべき博識、その日本とアジアへの熱愛と憂憤は敗戦後の現在といえどもなお読者の胸をうち、日本敗戦につづく「アジア、アフリカ、中南米の大動乱」の意義について三思せしむるものがある、・・・

大川周明の遍歴

 まず『日本精神研究』について見よう。
 「精神多年の遍歴の後、予は再び吾が魂の故郷に復えり、日本精神そのもののうちに初めて予の長く求めて長く得ざりし荘厳なるものあるを見た」
 青年時代の彼は、「吾が心の至深処に湧き、おもむろに全我を潤し去れる要求に動かされ、予の若き魂はその一切の矛盾と撞着と熱情とを抱きつつ、みだりに先賢古聖を思慕し、彼等のたどれる登高の一路を予もまたたどりて、みずから精神的高嶺の絶巓を摩すべく、実に踊躍して郷関を辞した」・・・

北一輝との出会いと訣別

 大川周明の日本改造とアジア解放の思想と行動を知るためには、北一輝との出会いと訣別の事情を見る方が早道であろう。これは同時に北一輝という「魔王的人物」の思想と行動を解明することにもなり、「五・一五事件」と「二・二六事件」の関連を明らかにすることにもなる・・・

魔王」と「須佐之男」

 大川周明曰く、
 「私は北君の国体論や支那革命外史を読んで、その文章にははやくから傾到していたが、会って対談に及んで、その舌端からほとばしる雄弁に驚嘆した。似た者同士という言葉通り、性格の似通った者が互いに相惹かれることは事実である。しかし、逆に最も天禀の違った者が互いに強く相惹く場合もある。私と北君の場合はこの後者である・・・・・・・・・・・・・・・」・・・

北一輝の「国体論」

 五・一五事件の後、乱れとんだ「怪文書」の中に「皇軍一体論続編」と題するものがある。
 『現代史資料』国家主義運動編第二部に収録されていて、その付記によれば、「右は、職業的革命屋なる痛烈なる言葉を以て民間一部策士にして軍部の派閥抗争に関係ある人々(北・西田派)を非難し、同時に軍部の統制を紊る者は、結局、これらの職業的革命屋と現状維持に汲々たる支配階級と更にこれに加うるにコミンタンの暗躍にもとづくものとして、極力皇軍の統制を強調している」とあり、その解説者は、全篇これ「統制派」(永田鉄山、建川、小磯、板垣、石原、辻政信など)のイデオロギーを彼ら自ら書き残した資料というべきものであると解説している・・・

乱れとぶ怪文書

 北一輝と大川周明の訣別に関しては諸説がある。
 検事斎藤三郎氏の『右翼思想犯罪事件の総合的研究』によれば、
 「大正十五年頃、北一輝は宮内大臣牧野伸顕以下に収賄の事実ありたりとの怪文書を出し、……安田銀行恐喝事件をひき起し、西田税、北一輝等は恐喝罪として検挙された。この事件により行地社内部に内訌が起り、……北一輝、大川周明両巨頭の間に越えがたき溝を生じ、……革新的日本主義陣営の中に全く相敵視する北派、大川派の二大潮流を生んだ」・・・

大川晩年の心境と対米抵抗

 さて最後に、再び大川周明の晩年の思想にふれておく必要がある。彼は自分の立場と心境を次のように説明している。「世間は私を右翼と呼ぶ。時には右翼の巨頭などとも呼ぶ。左翼に対しての言葉である。左翼とは何か。それは共産主義者または社会主義者のことである。共産主義と最も極端に対立するものは何か。それは資本主義である。果たして然らば資本主義者または財閥こそ、まさしく右翼と呼ばれるべきではないか。私は年少のころ社会主義に傾到したことはあるが未だ嘗て資本主義や財閥を謳歌したおぼえはない。従って私を右翼と呼ぶことは正当でない」・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十二章 昭和動乱の思想的背景 大川周明と北一輝

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

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条約改正 日本は五十六年間不平等条約の下に苦しんだ

2008/03/05 05:57

 


歴史の非情

 朝鮮併合の歴史を書き終わって、私は「歴史の非情」ということを改めて痛感させられた。
 日本による朝鮮併合には李王朝の悪政、ロシア、アメリカの野心、朝鮮民族の後進性などの理由をあげることができるが、どんな理由があるにせよ、日本の国家的利益による一方的な併合であったから、韓国宮廷と国民にとっては許し得ないことであり、特に「義兵事件」と呼ばれる軍隊と農民暴動の鎮圧は残酷そのものであった・・・

「神奈川条約」と「安政条約」

 ここで、日本の不平等条約の歴史をふりかえりたい。なぜなら、幕末に締結された「安政条約」が、長い改正運動の後、やっと撤廃されたのは、朝鮮併合後の明治四十三年であったからだ。
 不平等条約の撤廃については、明治維新政府はその成立の当初から苦心し、民間の志士有志もこれに呼応して戦ったが、イギリスを先頭とする欧米列国は、頑として日本の要求を認めず、日清・日露の役を経て、朝鮮併合を敢行した後に、列国は初めて日本の改正要求に応じたのである。しかも、条約の尻っぽとしての外国人による永代借地権は昭和十七年まで残った・・・

岩倉全権公使団の失望

 右にのべたように、「安政条約」は徳川幕府から明治政府に残された厄介きわまる遺産であった。現在の読者はこれを簡単な問題として考えているかもしれぬが、日本は実に五十六年間─厳密に言えば、八十七年間不平等条約の支配下にあった。
 「アジアは一つ」と叫んだ明治中期の思想家岡倉天心は、西洋人に読ませるための英文の著書の中で、「西洋が日本を真に理解するのは、日本艦隊がシンガポール沖においてイギリス東洋艦隊を撃滅した時であろう」と慷慨したが、この怒りと嘆きはすべての明治人に共通のものであった・・・

マリヤ・ルース号事件

 留守政府の外務卿は硬骨放胆な副島種臣であった。彼は岩倉、大久保の外遊中にもかかわらず、独自の方針で治外法権撤廃と関税自主権回復を試み、各国公使団に対し、「治外法権の撤去は天地の公道、宇宙の大義なり。各国がわが国に強制した最恵国条約なるものは不条理不公平である」と堂々の議論を展開したが、「ひとり英国公使これに反対してついに議行われざるに至れり」(『玄洋社史』)・・・

横浜居留地と南京町

 余談にわたるようであるが、ここで明治初年の日支関係を簡単に考察しておきたい。
 「新中国」ファンである戦後進歩派の教授、作家諸氏の中には、日本人のシナ人軽蔑は、日清戦勝後の「帝国主義的思い上がり」であるという説をとり、今もなおそれを固守している者がすくなくない。
 かの有名な「日清談判破裂して、品川乗り出す東艦……遺恨重なるチャンチャン坊主」という欣節の流行は明治二十一、二年ころであったことは、すでに第六章でのべた。その後、伊藤博文の資料を調べているうちに、明治十五年ころ、彼がベルリンから黒田清隆にあてた手紙の中に「支那豚尾先生」という言葉を発見して、私は驚きと疑問を新たにした・・・

井上馨の悪名

 副島種臣は、征韓論者として下野した後は、学問と風月を友として政治に思いを絶った。彼につづいて、寺島宗則が外務卿として改正のことに当たり、民論も強く彼を支持したが、列国の態度は依然として強硬で、ほとんど成果をあげることなく、井上馨にその席をゆずった。これより、悪名高き「欧化主義外交」と「鹿鳴館時代」が始まる・・・

鹿鳴館時代

 井上馨が外務卿として条約改正の衝に当たったのは、有名な「鹿鳴館時代」である。鹿鳴館は明治十三年に起工され、十六年に竣工した。十一月二十八日の落成祝賀会には、諸親王、諸大臣、各国公使、その他内外朝野の紳士千二百余名を集めた・・・

国粋派の猛反対運動

 明治十八年末の新官制により、第一次伊藤内閣が成立し、井上は外務卿から、外務大臣となり、ひきつづいて条約改正のために努力することとなった。だが、彼のあらゆる努力と苦心にもかかわらず、この改正は失敗し、ついに交渉中止を余儀なくされ、外務大臣の椅子と条約改正のことを政敵大隈重信にゆずらざるを得なかった・・・

井上の本心

 さて、井上は外務大臣をやめ、「欧化主義」の時代は去ったように見えたが、彼は決して条約改正の志と努力を捨てたわけではない。
 いかに反対論の攻撃と非難が強かろうと、維新後二十年経っても、なおのしかかっている「安政条約」が、日本に絶対に不利な「不平等条約」であることには変わりはない。その被害は日本の国力が多少とも上昇するにつれて、日一日と明白になる。しかも、維新以来常に政府の中央にいて、列国の対日政策の内側を見て来た井上は、「条約改正」がいかに至難の業であるかを知りすぎるほど知っていた。その故に、彼の次のような意見書(二十年七月)も生まれたのだ・・・

大隈重信の登場とその失脚

 井上のあとをつぎ、井上と十分に協議密約した後に外務大臣となって、条約改正の衝に当たったのは大隈重信であるが、彼もまた井上と同一条件の下で苦心を重ねなければならなかった。彼が直面したのは同じ列国の強硬態度であり、同じ民論の反撃であった・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十一章 条約改正 日本は五十六年間不平等条約の下に苦しんだ

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

ISBN:9784931391925
ISBN:9784860620523(普及版)

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朝鮮併合 ナショナリズムには牙がある

2008/03/04 22:05

 


中野好夫教授の心配

 英文学者で評論家の中野好夫教授が私の『大東亜戦争肯定論』を書評して、「朝鮮併合」という事実にほとんどふれず、いきなり満洲事件にとんでいるのが第一の不満だといい。その再論を望んでいる。ごもっともな不満だと思う。朝鮮併合は「日清・日露戦争までは防衛的であった日本が、いよいよ英米並みの帝国主義段階に入った」というニコライ・レーニン氏の有名な理論の継ぎ目にあたる。これは革命宣伝用パンフレットの木に竹をついだお話にすぎないと私は思っているが、それを信じている教授学生諸君も少なくないようだから、ここに一章を設けて、中野教授の不満と疑問にお答えしよう・・・

朝鮮併合の残虐性

 私は朝鮮併合を弁護する気持ちはない。その必要も認めない。朝鮮併合が日本の利益のために行われ、それが朝鮮民族に大きな被害を与えたことは誰も否定できない。ただ私は朝鮮併合もまた「日本の反撃」としての「東亜百年戦争」の一環であったことを、くりかえし強調する。
 日本は朝鮮を併合したが、大東亜戦争には敗北した。敗北者を鞭うつことほど容易なことはない。朝鮮に被害を与えた日本人の一人でありながら、学者顔の進歩人諸君は何の特権によって日本を鞭うつのか。それによって、彼が加害者とは無縁の「階級」に属することを証明するつもりなら、これほど卑劣な手品はない・・・

敵は背後の大国

 古代と中世の日鮮関係については改めて言わぬ。朝鮮併合には、少なくとも幕末から明治四十三年に至る「前史」があった。なぜ日本が「百年戦争」の途上において、朝鮮に対して「非常と残虐」を敢えてしなければならなかったかという理由を、この「前史」から始めて、金三奎氏と共に考えてみたい・・・

ネールの「ナショナリズム論」

 だが、ロシアと戦う前に、日本はまず大清帝国と戦わなければならなかった。日清・日露の両戦争が「ロシアのアジア侵略の阻止」をその根柢においていたことは、多くの歴史家の認めているところで、これを「帝国主義戦争」とみるものは極端なマルクス主義史家以外にはほとんどなくなった・・・

朝鮮を狙ったのは日本だけではない

 日本のナショナリズムはその初期において、薩英戦争と馬関戦争で、英・米・仏・蘭諸国に対して、まず小さな牙を出した。中期の日清、日露戦争によって、その牙と爪は大きく成長した。しかも日本の「百年戦争」はまだつづいていた。朝鮮と満洲に「生命線」を設定することによって、本来の大敵たる「西洋列強」との決戦にそなえようとした・・・

金玉均と福沢諭吉

 朝鮮併合の前史をさらに詳しく知るためには、明治十五年から約二十年間の京城の実状を見る必要がある。この間に、韓国は米、独、露、仏に強制されて修好条約を結んだが、李王朝の腐敗はすでに末期症状を呈し、宮廷の内部は旧守流と進歩派の抗争と陰謀により、さながら一大伏魔殿となりしかも外よりこれをうかがう清国、ロシア、日本に、アメリカフランスも加わり、あるいは公然と武力を用い、またはひそかに黄金をまき、国内の諸党派と結んで権謀術数至らざるなき卍巴の謀略戦を行っていた・・・

均玉均暗殺さる

 日本政府はこの亡命客に対して依然として冷淡であったが、民間有志家・・・・・の同情は彼らの上に集まり、亡命志士の志を成さしむべく、朝鮮政府と清国に対して事を起こそうと企てる者が続出した・・・

伊藤、井上、桂、山県

 さて、この武田範之、内田良平、葛生能久などの玄洋社・黒竜会系の青年たちが、「日韓合邦」において果たした役割は極めて特殊であり、「大アジア主義」運動の見地から見てはなはだ重要である・・・

東学党の乱

 もちろん、このような日本人の詠嘆と感傷は、朝鮮人にとっては問題ではない。民間の合併論者李容九も宮廷大官の中の親日派均玉均、朴泳孝も、朝鮮民族にとっては極悪の売国漢にすぎず、金三奎氏の『朝鮮現代史』も、李容九と一進会は完全に無視している・・・

天佑侠と東学党

 釜山の梁山泊はこの東学党援助を決意した。まず武田範之、柴田駒次郎を奧地の偵察に派遣し、大崎正吉は自ら東京に帰り、「二六新報社」の鈴木天眼に会い、彼の紹介で頭山満に会おうとしたが、政府の密偵にさまたげられ、的野半介の下宿を訪ねた・・・

内田良平と李容九

 内田良平と東学党、その後身としての一進会との関係はこのようにして始まっている。それが日韓合邦・・における内田と伊藤博文の結びつきのもととなり、やがて両者の対立と決裂のもととなった。内田良平は決して伊藤や日本政府の飼い犬ではなかった。つねに自己の理想と信念によって、その進退を決している・・・

閔妃暗殺事件

 さて、「閔妃事件」という言葉が出たから、ここで筆を十年前にさかのぼらせなければならぬ。
 この事件は明治二十九年、大院君と日本公使によって企てられた宮廷陰謀であり、失敗したクーデターである・・・

露国公使ウエーベルの活躍

 広江沢次郎氏『韓国時代のロシア活躍史』によれば、
「小村寿太郎公使はこの渦中に身を投じたが、排日熱熾烈であり、韓国王の信任皆無のため、手も足も出なかった」・・・

鎮海湾軍港事件

 三十二年四月、露国艦隊四隻は馬山浦に入港し、「東洋汽船株式会社」と表記した木標と石標一千本を陸揚げし、海岸地帯約三十万坪に打ちこんだ・・・

内田良平のロシア論

 日露開戦とその経過については改めて書かぬ。ただ、開戦に先立つ明治三十年、二十四歳の青年内田良平が単身ロシアにおもむき、当時露都にいた海軍の八代六郎、広瀬武夫にも会い、帰国後、『露西亜亡国論』を書いて、たちまち発売禁止された・・・

『大東合邦論』と李容九

 前にのべた内田と李容九の対談の中に、「余の意見は樽井藤吉氏の大東合邦論と同じである」という言葉が出てくる・・・

福沢の『脱亜論』

 奈良の寺に生まれて、自由民権運動に入り、やがて玄洋社に接近した樽井藤吉の伝記は省略するが、彼の問題の書が最初に日本語で書かれたのは、福沢諭吉の『脱亜論』の出たのと同じ明治十八年であったことはおもしろい・・・

樽井藤吉の理想

 樽井藤吉の『大東合邦論』は、福沢の『脱亜論』に対立するものであるが、その前提は同じく「西洋文明の東漸」、すなわち欧米列強のアジア侵略であり、これに対する抵抗案であった・・・

伊藤の『甘美なる空言』

 内田良平と李容九を結びつけたのは、日韓対等の『合邦』であった。伊藤博文が内田の進言をどの程度まで受け入れたかはわからない。ただ、伊藤は初代統監として、明治四十一年六月、韓国大官を集めて次のように演説している・・・

朝鮮民族の大抵抗

 しかし、内田がいかに強硬に『合邦論』を進言しようが、伊藤が自ら「志士仁人」を気取ろうが、彼の「保護政策」は山県、桂の「合併政策」の前奏曲にすぎず、朝鮮民族にとっては「奪国征服」以外の何物でもない・・・

李承晩の怨恨と李容九の憤死

 朝鮮側の資料をあされば、この抵抗はさらに英雄的に、日本の弾圧はいっそう残虐に描き出されていることであろうが、残念ながら、それは私の手元にない。私がここで言えることは、ただハルピン駅頭における伊藤の暗殺は彼の政策の当然の結果であったが、この暗殺がかえって併合を早め、総督府の武断政治を生み、それが日本の敗戦後に「李承晩の怨恨」として結実したということだけである・・・

内田良平の志

 伊藤博文は死に至るまで「合邦」に関する内田の進言に対しては常に態度を曖昧にしていた。内田は大いに怒り、大臣宋秉畯と辞職同盟を結び、ついに伊藤に統監を辞職させた・・・


「大東亜戦争肯定論」

第十章 朝鮮併合 ナショナリズムには牙がある

著者 :林房雄
出版社:夏目書房

ISBN:9784931391925
ISBN:9784860620523(普及版)

カテゴリ: 政治も    フォルダ: 指定なし

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